離脱の戦略


NEZUMI
シュトレークの『資本主義はどう終わるのか』によれば資本主義をゆっくりと終わらせるのは資本主義である。すなわち資本主義の敵は資本主義である。資本主義は革命を準備することはない。ランダウアーが預言したとおり、資本主義とは離脱の対象である。このことは加速主義は無効であることをあきらかにする(注1)。そうであるならスルニチェク&ウィリアムズとニック・ランドの違いなど問題ではない。スルニチェクらは加速主義に対してアンチ・グローバリズム的な素朴政治を対置してそことの切断をはかる。素朴政治は減速主義なのだが、問題は加速か減速かではないのだ。そもそも素朴政治の代名詞かもしれないネグリも加速主義であり、ポスト資本主義のヘゲモニーの奪権をめざす「革命的統治」をめざすかぎりで変わりはない。問われているのは資本主義と革命を断絶させることであり、拒絶と離脱の戦略なのだ。これは革命派の軌跡を総括しなおすことでもある(注2)
注1
ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』で加速主義的に資本主義の脱領土化を論じたかに見えるが、『千のプラトー』では国家装置とは異なる起源をもつ戦争機械に革命を担わせた。そもそも『アンチ・オイディプス』における資本主義と分裂症は決して加速主義的なものではない。この点では小泉義之『ドゥルーズと狂気』が重要である。
注2
たとえば長崎浩はこう書いていた。「私が唯物史観から学びえた大切な教えは、党の存在を『プロレタリアートの歴史的使命』によって根拠づけてはならないということであった」(「スターリン主義と党」)。こうした視点の先駆にはやはりベンヤミンの『歴史の概念について』がある。
(なお、この稿は「HAPAX」9号でより詳細に展開されることになる)

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